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2001年の1月1日、オーストリアン・キャンプで朝を迎え、それより、ヒマラヤ、アンナプルナT峰(8091m)の南麓の山道、
といっても地元の人たちの生活道ですが、それをたどってトルカで昼食、夕方ランドルンに着きました。そこで2晩目の
テント泊。翌2日、ランドルンから一般のトレッキング・コースを外れ、畑の中の急斜面の農作業に通う小路をはるか下方の
モディ・コーラ(モディ川)まで下ります。川を渡ってシャウレ・バザールで昼食。川沿いに下ってビレタンティで3晩目の
テント泊。翌3日、ナヤプールまで歩いて、そこからバスでポカラへ。ミニ・トレッキングの終了です。
【パノラマ写真以外は、すべて標準50mmレンズで撮影】
農家の軒先や 畑の傍の小路 をたどって、は るか下方の川 まで下ります。 冬枯れし 段々畑や 鶏の鳴く |
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家族が橋を渡 って来るのを 待っている Sちゃん |
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合図したら 笑顔で応えて くれた、山羊を 抱いた女の子 |
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3日の朝、ビ レタンティの テント場から 振り返って見 るマチャプ チャレ (6993m) |
前の晩も、歌って踊ってくれた子供たち、 朝の出発前にも、歌って見送ってくれる。 (ランドルンのキャンプ地にて) 初星にランドルン村の子ら踊り |
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トレッキング一行との交流。 女の子が、足のペディキュアをしているのを 一行の女性が発見。しきりに感心・・・ 冬晴れの別れに歌う山の子ら 二日なり別れの朝の霧淡く |
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「バイ、バイ」 トレッカーが通るのに慣れているのか、 小さな子も手を振ってくれる。 |
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穴の空いたシャツ1枚だけの少年。 日本の昭和20年台初頭のころのよう。 トレッキングコースから外れた農家の 暮らしは恵まれないようだ。 初空や少年のシャツ破れおり |
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モディ・コーラ(モディ川)まで下り、 木と石で出来た橋を渡る。 |
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対岸で、馬に薪などを運ばせている人 たちに出会う。 |
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昼食の予定地、シャウレ・バザールが 見えてきた。 |
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放し飼いのニワトリの傍には、 いい帽子を着て、裸足の子。 年立てば裸足の子にも夢のあり |
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昼食をとっていると、家族連れが 通りかかる。 |
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昼食時、どこからともなく現れて、店開きする チベット難民のおじさん。 穏やかな性格なのか、おっとりとしていて、 正面の客ばかり向いて横の私の方を見て くれない。しびれきらし、ネバール語で Baji(バジ)! と言ったら、こちらを向いた。 バジは「おじいさん」という意味。 まだ若そうだからちょっと悪かったかな・・・ でもネパール組み紐、沢山買ったから。 |
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同じ店開きの仲間たち。 日本人とほとんど変わらない相貌、 振る舞い、雰囲気などに、 ついつい沢山買ってしまう。 ただし、しっかり「商談」は煮詰めて、 言い出しの値段の5割から6割くらいで。 |
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大きな鋸で、板を作っている。 独特の鋸。 向こうに咲いている赤い花は、 ワタというものらしい。 |
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二人ともおとなしい子だった。 ドッコを背負って、これから仕事かな・・? (シャムロン附近で) |
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「たくさん、来るなァ・・・・」 | |
「ナマステ」 (「ナマステ」は、あらゆる場面で 使われる挨拶の言葉。もともとは、 「南無阿弥陀仏」というほどの意味 であるらしい。どんなに小さな子でも、 姿勢を正し手を合わせて、「ナマステ」と 挨拶する。) |
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ビレタンティで、Sさん。 |
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ビレタンティで、 学校帰りの子ら。 (トレッキングも終盤、 1月2日の日も暮れかかる)。 |
ボダナートにあるネパール最大の ストゥーパ(仏塔)。中国によるチ ベットの武力併合後は、世界でも 有数のチベット文化の中心地。 巡礼やお参りの仏教徒でごった がえしていた。 |
帰路、再びヒマラヤなど多くの 山脈を越えて、中国重慶へ。 |
【感想】ネパールの人たちと日本
トレッキングの途中で、あるいは帰国してからも言葉では言い表しにくい実に多くのことを学び、感じました。特に日本の暮らしについて振り返らざるを得ませんでした。あらましを述べます。
@段々畑に驚きました。
写真を見てもらっても分かりますように、標高差が千メートルもある斜面一帯が畑に作り上げられています。かつての日本でも、それは勤勉さの象徴でした。ネパールでは比較にならない規模です。発展途上国としてはもっとも貧しい生活を余儀なくされているというこの国の国土利用の実態を表しています。
A子供たちの瞳が違います。
多くの子供たちの手足は汚れたままです。入浴などという習慣はありません(6月から9月の雨期以外は空気が乾燥しています。山歩きでお風呂に入れなくても快適です)。裸足の子もいます。満足な衣服を着ていない子がほとんどです。種族による顔つきの違いはあるものの、彼らの瞳は、心を惹きつける澄み切った輝きを持っています。ついつい日本の子供たちを思い出さずにはおれません。日本の子供たちは、あまりに多くのものに攻め寄せられて、応対に疲れているのではないでしょうか。あふれる情報はもちろん、学業をはじめ親の期待や日々の注文、彼らにとって複雑怪奇な、大人にとってさえ理解に苦しむほどの社会現象、人工物の氾濫、CMを中心とするひっきりなしの売り込み、子供たちなりの人間関係等々、彼らは多くの感覚、すなわち五感の大部分を休ませておかなければ、たちまち疲労困憊してしまうのではないか、瞳の輝きが「お休み」となってもやむを得ないのではないか、などと日本の現実を省みました。
牛馬の世話をしている子や畑仕事に精を出している子など、ちょうど半世紀ほど前の日本の農村を映したようなところも少なくありません。あり余る生活物資に囲まれながら、生きる目標や生き甲斐を見出せない今の日本の子供たちに、この暮らしを一目だけでも見せてやりたい、そのために修学旅行に連れて来たい、とは多くの同行者の意見でした。
B暮らしの環境は厳しいものです。
地形の関係やそのほかの事情から、車の通る道路は極端に少ない状況です。人や牛馬の歩く山道がほとんどです。水道設備も限られていて電気の引かれていない集落がたくさんあります。診療所のような医療施設はもちろん、小学校などの教育設備のないところが少なくありません。「カースト制度」(儀礼上の風習などから序列化され、主に職業に関係している世襲的な社会集団の制度。現在は次第に衰えつつある)の影響もあって、同じ世代の子供たちであってもその暮らし方や過ごし方に大きな差が見られます。
2002年頃のネパールでは、マオイスト(急進的な毛沢東主義者)たちが政府機関や警察官などを襲い、数千人の死者を出す治安の悪い状態となりました。特に西部地方では、わが国の外務省の「海外渡航情報」の「渡航の延期をおすすめします」レベルに指定されるほどの危険な状態となりました。現在もなお、ややレベルはゆるめられはしましたが、依然として不安定で危険な状態は、特に西部地方を中心にむしろ拡大しているような状況にあります。日本の新聞、テレビ等でもしばしば報道されているとおりです。これらは貧富の差などを原因とする政治的な混乱の一つと見られています。今後どうなって行くのか気になるところです。
Cなぜか日本の昔を思い出させます。
50年ほど前までの日本の状況によく似ています。あの頃のわが国には、着るもの食べるもの住まい、いわば衣食住に困窮している人たちが都市部に限らず田舎でも大勢いました。ただ人々の瞳はやはりネパールの人たちのように生き生きと、何かに向かって輝いていたように思います。また互いに助け合いながら、譲り合いながら暮らす術を知っていました。そうしなければ第二次世界大戦の戦中戦後は、乏しい物資の中では生きて行けなかったのです。
牛馬、鶏、犬、猫など、みんな人間と一緒に暮らしているところも、昔の日本と同じです。放し飼いの彼らは、そばに近づいてもごく自然な態度で、おっとりとした穏やかな過ごし方をしています。互いに対等であるという印象を強く受けます。あるときカリガンダキの河原の橋の袂(たもと)で二人だけで弁当を食べていましたら、向こうから狼のような感じの白い犬が渡って来ました。私らの食べている蜂蜜を塗った平たいパンを、「なるほど」というような顔でのぞき込みました。その犬に、「おいしそうですね」と言われたような気がしたのです。牛も馬も繋がれているものは少なく、一緒に働いているもの、のどかに山野のエサを食んでいるものなど、ごく普通に彼らとヒトとの共生の風景が見られます。
D何度でも訪ねて行きたくなります。
トレッキングの途中で村人たちや子供たちに声をかけました。そのとき何よりもうれしいのは、初めからまるで知り合いであるかのように、みんな親しみ深い態度であることです。大人も子供も、牛馬も犬も、みな旧知のような感じがします。親しみのある応対やその瞳は、かつてみんながそうであったように、もともと全てのヒトが共有していた素晴らしいもの、共に今、生きているのがうれしくなるような、連帯感のようなものを心の中に呼び起こしてくれるものでした。
日本の生活を離れて、電化製品などとは無縁の地域を歩くのですから、毎日がすべて快適というわけには行きませんが、帰国してから何故かまたすぐに訪ねたくなるのです。
Eチベット難民も少なくありません。
トレッキングの途中、昼食を取っていると、どこからともなく5、6名の男女がやってきて、近くに敷物を広げ、ブレスレットや小さな器、金物細工、織物、組み紐などを並べて、にわか出店を開きます。中国政府の政策に同調できず、チベットからネパールへ逃れてきたチベット難民の人たちです。明るくユーモアたっぷりに商品を売り込みます。定価や値札はありませんから、値段の交渉がまた一つの楽しみです。相貌は日本人とまったく同じといっていいほどですから互いに親しみを持たざるをえません。先方にとっても日本人は何かと親しみを持ちやすいようです。しかし彼らにとってはそれらが生活の糧です。厳しい側面もないとはいえません。
ネパール各地にはチベット難民村があります。それらの中に立つ立派なラマ教寺院の中には、学校が置かれているところが少なくありません。乏しい物資や悪条件の中で、彼らは熱心に勉強をしています。
F個人でも手助けができます。
トレッキング中に子供たちが求めてくるのは、ノートや鉛筆、飴やガムなどの甘いものです。断ってから写真を撮らせて貰っても、お礼として特に甘いものを与えないように、とリーダーから注意を受けています。虫歯になるためにかえってあだになるのです。何度も何度もそのような場面で彼らと接していると、つい一度くらいならと心が緩みますが、なんとか持ちこたえて帰国します。そのことを思い出すたび、彼らへの恩返しをしたくなります。幸い、日本にいながら援助の出来る仕組みが沢山あります。
ネパールのあらゆる地方で日本人によるNGOの活躍が見られます。農業指導とか、水力発電や教育施設に関するもの、衛生指導など多岐にわたっています。そのような現地のNGOなどへの支援活動に直接参加する方法もありますが、日本国内での援助団体も少なくありません。接した子供たちや現地の人たちを思い出し、幾つかのNGOに入りました。
生活費もまかなえず、学校へ通うことも出来ない、特に女の子たちのために、一年間の教職員の給料とか、制服、教材費など全てで、一人当たり11,000円で、「里親」として卒業までの10年間援助する約束をしています。私の「里子」は7歳(開始当初)のU・ナガルコティちゃんです。32歳のお父さんはポーターの仕事をしていますが、安定した収入が得られないため彼女を通学させることが出来ません。このような境遇の子供たちが沢山います。Uちゃんからは、勉強の成果などを綴った手紙が、NGOを通じて送られて来ます。
G現地に住み着き、援助活動を行っている日本人。
元高校教師の垣見一雅さんは、ヒマラヤ登山中に雪崩に遭って大怪我をしました。そのとき看病をしてくれたシェルパの出身地パルパ県のドリマラ村に住み着いて、たった一人で援助活動を行っています。雨期を除き毎日のように村々を歩き、主に病気の人たちを病院へ送る手配、学校や水道施設の建設、種々の相談ごとなど、さまざまな活動を続けています。
ネパール国内で活躍されている方に、国内の団体を通じたり、あるいはその方たちに直接援助の送金などを行うことができます。
H日本の暮らしを振り返る。
トレッキングで出会った子供たちなどを思い出すのは、日本の華やかな商店街を歩いたり、多種多様の食品であふれんばかりのスーパーマーケットで買い物をしたりするときです。また下校途中の小学生たちに出会ったときにも、ついかの国の裸足の子供たちを思い出します。トレッキングに同行のポーターの日当は一日300円ほどです。それでも恵まれた、いい収入なのです。社会的地理的条件に制約を受け、また政治のあり方にもよるとはいえ、この「宇宙船地球号」での暮らしぶりに、物質的な面であまりに格差があるというのはお互い幸せなことではありません。また物の豊かさがもたらす弊害についても、日本の現実を目の前にして、考え込まざるを得ません。
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