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城川町、紀貫之の墓

西予市城川町土居の報恩寺の傍に、紀貫之の墓とされるものがあります。画像を中心に、紹介します。
昔の人たちの暮らしぶりを偲ぶ一助となりますよう。
(2003/9/29の記録です)

【ドライブ案内】
国道197号、城川町下相の「道の駅きなはいや」の東100mを左折、祓川(はらいがわ)トンネルを抜け(日吉村方面からは、城川町古市交差点から県道2号城川檮原線に入り三島橋手前三叉路を直進し、約1km呉野々手前右手報恩寺登り口)→城川町土居、駐在所手前Y字路を右へ。八千代橋を渡り100m先T字路を右へ。→約200mで報恩寺登り口。棚田の間の急な曲がりくねった狭い舗装道路、約100m先Y字路を右へ。→報恩寺前に駐車し、歩いて南へ約200mにある、墓地左手のコンクリートの急な小道を20mほど登れば紀貫之の墓。(地元住民に聞いても、知らない人が多い可能性あり、報恩寺までを尋ねるのがいいと思われる。(報恩寺は無住ではないので聞けば教えてくれるはず)。

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五輪の塔など 最近新設された報恩寺山門前のもので
はなく、南へ1分ほど行った一般の墓地
の最上部あたりにある。
急傾斜地の狭い墓地。
紀貫之の墓の案内板こんな案内板あり。
詳しくは、最下欄を↓
奇妙な形の墓石 とにかく、奇怪な形のものが多く、
時間の経過とともに磨耗したものなのか、
初めから「異形」のものであったのか・・・

(最下欄の「土居郷土誌」の説明では「天光
○人居士」で、○の部分が読めない、とある
が、「天光道人居士」と、この写真でもはっ
きり読める。何かの誤りか・・。
訪問される方は、確かめられるといいと思う)。

そのときによって、読めたり読めなかったり、
するのかも・・・
奇怪な形の墓石 同じく墓石
これでも、れっきとした墓石であろう。
墓地からの眺め 墓地から下部を見る
墓地から北方の眺め。甲ヶ森はこれよりずっと左。 、土居の盆地、呉野々のあたり。
墓地からの家並みの眺め 墓地から見る八千代橋
すぐ下の、土居町田中地区の家並。 橋は「八千代橋」、バス路線でもある。
【徳田実編『土居郷土誌』(土居郷土誌発行委員会1976) 「土居にある貫之の墓」から】
 土居の墓地である馬場の六地蔵様のすぐ右にある小道を上って数歩の処、その右側に苔むした古墳がある。前列に四基、後に一基都合五基の墓が天正の頃を物語っている。
 寄りつきの五輪の塔が、永山伯耆守の墓と言い伝えられているが、之は忠臣島治右ヱ門の墓と信じたい。
 ただし、その台石に天正十一年と年代が苔むした中から、はっきりと読まれるので、三滝、甲ヶ森城の落城が天正十一年であったという証拠になるのではないかと思う。
 昭和四十九年末、土居郷土誌執筆中に町文化財専門委員の上元和夫がその墓の隣に紀貫之の墓があるという。貫之の墓は近江の坂本村にあるんだと信じていた筆者は、半信半疑で同行して見に行った。なるほど紀貫之の名が墓石の処に判読できる程度に書かれている。そこで一基の墓は紀貫之の墓と断定した。
 親安は紀家である。貫之は十七代、親安は三十八代とその開きが大であるから貫之は紀家の祖先であることを示し、追悼の意味で、ここに墓石を建立したのであろう。
 五基の中、二基はわかったが、他の三基は墓台はあるが墓石は崩れて、その中の一基に天光○人居士とあり上から三字目の○が読めない居士とあるから城主ではなく身分の高い家臣であろう。
 他の二基の一基は、どうも親安公の祖父に当る紀実平公が眠っていられるような気がする。実平公は甲ヶ森の城主であり上洛帰城の折、猿藪村で病没され、その骨を土居の下谷に納置されたとあり、墓地は丁度甲ヶ森の真向こうにあたる。碑文が読めないのが残念である。
甲ヶ森の案内板 現況はアンテナ数基
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