うなめ越考(うなめごこう)
愛媛県東温市/久万高原町 〔皿ケ嶺連峰県立自然公園〕   2006/11/21(火)
「うなめ越」(うなめご)とは、いったいどこを指すのか、考えました。
この地図の、「奥善神山」が
「うなめ越」ではないか、
というお話が寄せられました。
おそらく、北川淳一郎氏の書かれた
『ふるさとの山々―思い出―』の一文
「四、善神山」(「続川内町誌」1968)
p.330によるのではないかと
思われます。

その部分は下記のとおりです。
          ↓
2003年11月14日に1284.1mの三角点のある「奥善神山」(と思っている)山頂に登ったとき、
このように「善神ケ森」と表示されておりました。すぐそばには十数年前に立てられた
鉄製の「奥善神山」との道標もあります。皆さん互いに頑張って「主張」してますね。
奥善神山への急登直前のあたり このように書いてあります。 老兵ながら頑張っております。
1284.1mの三角点から、
30mほど北西へ出た尾根からの
眺め。
右は、久万高原町遅越のあたり、
南南西直線距離2.5kmほど。
私見では、銅山越、がぞう越、六部堂越、手箱越、おおたお越、一の谷越など全て
「越え」は峠の意味ですから、山頂ではないでしょう。ただ麓の人が山のほうを指して
「あれが、うなめごじゃ」と言えば、山容全体を指しているのですから、奥善神山が「うなめご」と
なっても間違いではないでしょう。昔の生活に三角点など関係ないジャン、ということでいかがでしょう?

現在の井内峠隧道の上の井内峠よりも、かつてはやや西寄りの「うなめ越」が、正統な峠だったのでは
ないかと考えます。地形図を見れば、直瀬からの緩やかな谷の窪みがその部分につながっています。
辞書によれば、「うなめ」とは「牝牛(めうし)」のことだそうです。
「牝牛の越えた峠」となれば、何か「物語」があったのではないかと思われます。
このあたりが、「うなめ越」らしい。
昔はお地蔵さんがあったようだが、
この日、気付かず。
そこからみた、茅場。

山名、地名等については、当時、日本観光協会が建てた道標に依っています。
1969年2月26日、井内バス停→大滝橋→井内峠→奥善神山→上林峠
→上駄場→上林バス停と歩いたとき、尾根から石鎚山がよく見えました。 

37年後の姿。よく頑張りました。
 古いキスリング。ロングスパッツ代わりに、ビニールを
巻いているところなど、貧乏山行だったことを偲ばせます。ああ、昭和44年。
今の山登りの贅沢なこと。弁当もコンビニなどで、その日出発後の調達。
1967年11月19日、白糸滝から尾根に上がり、奥善神山を経て、うなめ越から近道で井内に降りようとしたとき、
5人の若者は、道に迷ってしまいました。この秋の短日、山頂が17時だったのですから、勇ましいものです。
40年ほども前のことですが、その日のありさまを随想にしたのが最下欄の「忘れられていた傘」です。
山の芸術誌『アルプ』153(1970年11月)号(創文社)に載せられたものです。当時のあのあたりの様子を思い出します。
〔1967/11/19〕

09:55 上林バス停出発。
10:50 白糸滝着。
11:35 同滝発。
14:58 上林峠・陣ケ森間の尾根。
15:40まで、激しい藪こぎで取れ
     なかった遅い昼食。
16:50 善神ケ森1253m。
17:08 奥善神山1284.1m
17:20 うなめ越(うなめご)。
18:30 前進不可能となり引返し。
19:40 林道に出る。
20:20 井内のK氏宅。
21:15 川内バス停。
22:10 自宅帰着。
〔下記の紀行随想をご覧ください〕

*なお、地蔵さんがあった
「うなめ越」については、現地調査が
必要と考えています。
40年近く以前のことですから、
現状をもう一度確認してみたいと
思います。

【2007/5/3お地蔵さんの確認に
行きました。→ こちら 
「うなめ越再考・奥善神山」
〔上記地図は、当初記載のもののトレース(歩いた部分)に誤りがありましたので、11月27日差し替えました〕
さらに、2007年5月3日、現地の一部を再踏査の結果、トレースがはっきりしましたので、再度差し替えました[2007/5/5]。
井内の成のあたりから、茅場とその
上部(右方向)のうなめ越を振り返る。
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「うなめ越再考、奥善神山」2007/5/3はこちら
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