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旧友と、ふるさとを訪ねる
−西予市城川町下相・古市・中津川・土居−

2013/01/12(土) 曇のち晴
上下相(かみおりあい)の
「江戸渕」に寄ってみる。

かつては、柵などの
まったくない
狭い砂利道。

今、右手の岩盤を
繰り抜いて
国道197号線の
トンネルが付いている。
「江戸渕」の伝説。

江戸時代に、ある侍が
この淵に居るに違いない
大蛇を確認してやる、
と言って、一晩、武装して
岩の上で頑張った。
翌朝、村の者が行って見ると
前日と同じ所に立っている。
それは、立ったまま死んで
いる姿だった。
大蛇に血を抜かれたに
違いない、ということに、
なったそうな。
私らの少中学時代には、昭和のはじめ、トラックが淵に転落、5人だったかが亡くなった。
ここを通ると、淵の中から「助けてくれ〜〜」と呼ぶ声が聞こえてくる、と聞かされた。
古市の
「お不動さん」に寄る。

縁日の餅まきでは
赤い印のついた
餅を拾って
景品を当てて
帰るのが夢だった。

ついこの間まで、出店などは
なくなっていたが、
餅まきだけは
続けられていた、
と地元の人。
この日同行のIは、
その餅拾いで、一等賞の
木炭1俵を当てたそうな。
1俵の重さは
4貫(約16キロ)。
近くの友人に自転車を借り、
荷台に積んで、真っ暗な道を
1キロ余り、土居の街まで
持って帰ったと言う。

1等賞は羨ましいが、
持ち帰るのも
一苦労だったのだ。
 次いで、中津川の谷の入口へ。

境内に、たくさんの
ドングリが落ちている。

縄文人の食糧かと
錯覚する。
かつて使われた
牛鬼の肋骨、
といっても
竹で作られた骨組みが
堂内に残されていた。

中津川の
谷の奥を見る。
土居小学校に
来た。

3階建の
鉄筋コンクリート造。
1950年(昭和25年)
4月3日月曜日の
土居村立土居小学校、
並びに土居中学校。
このとき
小学校児童344名、
中学校生徒300名。
現在は小学校児童40名ほど。

「昭和5年12月7日の未明、
突然出火して、平屋建て
校舎1棟、便所1棟を残し
他の建物を全部焼失した。」
(『土居郷土誌』1976より)
その後、左の写真の校舎、
昭和6年3月、工事に着手、
同年9月に竣工したもの。
校舎は平屋建スレート葺き
2棟で、講堂、便所、
教員室、炊事場その他の
附属建物等総工費15,000余円。
(この写真は、新築なった
当時のものと思われる)
校舎の床下に潜って、
溶けて変形し丸くなったガラ
スの破片を拾ったことがある。
昭和10年代、人の腕ほどだったイブキビャクシン、奉安殿の両脇に植えられていた。
60有余年経ってこんな巨木になっていて驚く。「忠君愛国」の石碑は、当時のままか。

どなたかと思ったら
福澤諭吉さんだった。

漢文なので、よう読まん。



校舎の裏側へ回る。

旧・木造校舎の時代は、
講堂の裏でもあり、
職員室の裏でもあった。
四角い池があった。

この頃少なくなった
コシアカツバメの古巣。

← 校庭北から青年山方面。
あの山向こうに
1ハゲ、2ハゲ、3ハゲ
がある。
学校北側に今でも
「忠魂碑」がある。

この前を通るときは
姿勢を正し、
最敬礼しないと
おこられた。
軍国主義の時代。

昭和17年建立。最上部の「郷社」の字が塗りつぶされている。


杉の大木も
枯れかけていると
判断されたらしい。
ついに伐り倒された。

年輪を数えるのを忘れた。
境内、
北から南を見る。

手水鉢で
礼儀正しく
手を清める I。
神社の
裏門?

正式名は?

調べてない…
三嶋神社
社殿に向かう。
三嶋神社裏の
御田植祭の
行なわれる田んぼと
見物席。

毎年7月の第1日曜日
数千人の見物客で
賑わう。
いわゆる
「どろんこ祭り」
数年前まで
建っていた
「養護老人ホーム」の
跡地。

古市の
旧・城川東中学の
建物を転用、
移転した。
三嶋神社の
階段を上部から。
道路の脇を
「いでご」が
流れている。
土居小学校の
現在の正門。
1957年(昭和35年)頃の
カツラヤブから見た
土居盆地。

中央の杉木立が
三嶋神社。

その右下、
土居小学校
土居中学校
上の写真と正反対方向
(新開の方向)から
祓川峠方面を見る。
(医師・矢野杏仙宅旧敷地から)

現在は「祓川トンネル」が
開通。

左端が三嶋神社の杜。
右の建物は
「聚楽館」という
映画館兼大衆劇場。
現在は取り壊されて、無い。
川後岩(かごいわ)の上の稜線を三嶋神社から見る。数十年経っても瞼に焼き付いているものだ。


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