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ふるさと点描
−伏越・古市・窪野など−

2011/12/21(水) 薄曇〔西予市城川町〕
墓参のついでに、ふるさとの佇まいを訪ねました。


伏越(俗称うまころばし)にある「伏越茶堂」です。
山茶花が花ざかり。

【伏越の茶堂沿革】
この土地は旧往還筋にあり、この茶堂の地より古市よりの地蔵のくぼをへて土居の方に通じていた。
昔から、何となく、ぶきみな雰囲気のある所で、俗称のように、馬や牛が、
さわいおでけがをしたりすることの多かった場所であった。
昔この地で一人の遍路(六部)が死に、こもまきにしてこの地に埋められたという。
又、現在の堂の上に桑畠があるが、その下に野つぼがあって、それを肥として利用していたが、
災がつゞく事があったので、部落で“みこ”を招いておがんでもらうと、
その六部らしい人のお告げで、自分に肥がかけられるのが残念だ、
どこそこにうめられているから……とあった。
それで人々は示された土地を掘ってみると、そこに錫杖と小刀がうめられてあった、ということだ。
その霊をまつった場所として現在の茶堂があり、八十八ヶ所の巡礼記念の石仏や大師さまを
安置して、接待の行事や、念仏行事がつゞけられてきた。
念仏も、前の川の広場の、“しんげん淵”から念仏をはじめ、新盆の家に集まり、
そのあげがこの茶堂になったようである。
それらの諸行事も他の茶堂と同じように終戦を境にしてやまった。
尚この堂は、上に観音さまをまつった小さなお堂のかゝわりあいで、大師堂とも呼ばれていた。
【出典:『ふるさとの茶堂と石仏−城川の信仰−』 
城川町文化財保護委員会、昭和54年(1979年)発行】


【伏越茶堂の安置仏】
☆弘法大師座像半肉彫り27cm
奉納 明治23年7月吉日
施主 大之内虎吉
☆木彫の大師像上半身のみ

この茶堂から左手に、急なカーブの旧道が残っている。
昭和25−6年ころ、竹材を満載したトラックが谷底に転落した。中学生だった私らが見物に行くと、
遥か眼下の岩の上に、カボチャの割ったようなものが載っていた。まだ息のある人を古市の
岩見医院の土間に横たえてあった。盛んに「おかあを呼べ!」と喚いていた。
まるで酔っ払っているようで(実際、酔っていたのかも知れないが)頭部の半分が
カパッと開いた感じになっていた。私は誓ったものだ、
「大きくなっても決して運転手にはならない」と。ところが今、軽四であちこち走り回っている。
道路は橋がかけられ直線となり、拡幅されてガードレールも完備している。

伏越。
黒瀬川の左岸を
国道197号線から見る。

圃場整備がされて
直線の段々畑が
つづく。
日吉方面。
古市の橋に来た。
渡った左手にはT歯科医院が
あった(現在更地)。
同級生Dの家。よく
遊びに行き、オルガンに
触らせてもらった。
1966年(昭和41年)松山
市民会館にベルリン・フィルと
カラヤンがやって来た時、
Dのお父さんと並んで
ベートーヴェンの交響曲第7番や
ブラームスの「ハイドンの
主題による変奏曲」など
を聴いた。
かつて
古市のお不動さん祭りで
賑わった八幡神社。

「古市のお不動さん付近」

こちら
黒瀬川は、
古市で支流、
三滝川に入る。

遡れば…
昔のままの風景。
道路(県道2号線)は
格段に立派になっている。


橋の袂に車を停めて。


三滝川をまたぐ橋を
渡る。
三滝川、
この遥か上流で
中学生時代、
友人Oと水中に潜って
手製の“鉄砲ヤス”で
ウナギを突いて
獲った。

夏休み中に
背中の皮が
3回ほどむげた。

散髪屋で
取ってもらった
こともある。
三滝川右岸から、古市の街中の方角。向こうの山は、旧・高川村の池野々あたりの山。

古市〜土居の祓川トンネルを〜下相(おりあい)〜伏越と回る三角地帯は「鳥獣保護区」。
3年ごとに解除される「休猟区」と違って、ほぼ変わることのない鳥獣の安全地帯。
ただし最近は、イノシシの害に、皆んな悩まされている。

向こうの山は、さらなる支流・中津川の右岸の山々。谷の集落には、うちの親戚がある。
明治3年3月、農民たちの一揆「野村騒動」が勃発。宇和島藩内の農民たちが徒党を組んで
野村の緒方家に集結したのが始まり。
嘉喜尾・土居・窪野・古市三ヶ村にも広まり、最終的には一万数千人になったと言われる。
中津川での主謀者三人は、のちに沖ノ島などへ3年間の流刑とされる。
その流刑者の孫のところへお嫁に行ったのが、うちのお祖父さんの妹、
明治23年生まれの「Mばあちゃん」だった。いつも、うちの座敷で母と世間話をしていた。
誉れこそあれ恥じるべき行動ではなかったけれども、時代が時代なので、
お墓はひっそりと目立たぬように建てたそうだ。
Mばあちゃんにもらった「八角時計」は、今も書斎でコチコチと確かな時を刻んでいる。
正時には、大きく元気な音で時を告げる。

土居地区へ入る。

新開の集落。
田圃道しか
なかったところも
今はバス路線道路が通る。

新開がわから
土居の街村を見る。

← その街村の裏にも
立派な道路が造られた。

向こうの山は
川後岩(かごいわ)の裏山。
市営住宅の並び。

元は、
土佐の勤皇の志士たちを
援助した
医師・矢野杏仙の屋敷跡。

「矢野杏仙邸跡付近・盛夏」

こちら
窪野地区へ入ります。
「下里」です。

やや上流に
「岩上田」(がんじょうでん)
もありますが、
ここは
「岩上松」



← 墓地から見る
照葉樹林の森。

イノシシがそこら中を
ほじくってます。
「イノブタ化」して
子沢山になっていると
いわれます。
食べ物に困って
いるようです。
父の生家付近。
今は取り壊されて
親戚の家だけが
残っています。
県道2号線に
面している
「下里茶堂」

【下里(さがり)茶堂】
建立年月日は不詳とのこと。
行事として、三滝城主長山氏の願成寺のお堂であり、旧八月七日組中総出で念仏会を行う。
毎春4月28日には愛宕さまをお祭りし、奉納子供相撲三十三結びをして防火祈念としている。
(昭和9年に、この地区に大火があったという)
【安置仏】
☆地蔵菩薩立像丸彫り 60.5cm 明和三丙戌七月 首部損傷 持宝珠 願主 瑠右衛門他五名
☆馬頭観音座像半肉彫り 40cm 大正11年 三面八臂(内六臂線彫り) 長橋源治郎

【出典:前出:『ふるさとの茶堂石仏』】

下里の
同級生の家。
下里から
北方を見る。

向こうの山は
三滝川最上流
高知県檮原町との境。
稜線付近を
「大規模林道」が走って
大野ヶ原に通じている。


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