No.5   ヒサカキの匂う頃  2005/3/23


 三月、彼岸も間近の頃、野山で突然にヒサカキの花の匂いに出会う。
 寒風から抜け出したばかりの季節、いきなり現れて私を驚かせる。「今年も春がやって来た。ヒサカキが咲いた」と気付く瞬間である。
 この独特の匂いがなければ、私だけでなく多くの人はその開花に気付かないに違いない。
 小さな木であるうえに、5ミリ足らずの、花弁とも思えないほどの淡緑黄色の小さな花を葉の合間の小枝に連ねている。秋には黒紫色の5,6ミリの果実となって野鳥たちのエサとなる。ブルーブラックのインクに見立てて野山遊びの一つとした覚えのある人もいるだろう。

 その匂いに出会うと私は決まって、ある特殊な感情に捉えられる。
 なぜか直感的に、巻寿司の海苔の匂いだ、と思う。そして小学生の頃の春の遠足の気分を思い出す。遠足の弁当の定番は「巻寿司」であったのだろうか。続いて、悲しみを伴う切ない感情がやって来る。
 その理由について、私はずっと気付かずにいた。毎年ヒサカキの花の匂いが流れてくるたび、小学生時代のその「切なさ」を思い起こしては、何故なのだろうと考えて来た。

 早春の遠足は、どこか明るくて希望に満ちていて、何よりも毎日の学業から解放された級友たちとの自由な交歓の場であった。だから心楽しいものであったはずである。今の子供たちにとっても多分それは同じだろう。
 当時の私は、弁当を開いたとき食欲とは別のところで、決まってその切ない感情に捉われるのであった。 弁当に箸をつけながら「こんな贅沢をしていいのか」という感情に襲われるのである。
 当時、戦後の食糧難の時代だった。毎日の食事は、野草などを刻み込んだ雑炊ばかり。非農家でもあったせいで、皆の真ん中に置かれた琺瑯びきの大きな鍋の中を掻き混ぜると、米粒がときたま浮かび上がってくるようなものであった。
 その上、毎日食事時に、母の「口撃」が父に向けられるのである。子供たちは、どの家でも食事とはこんなふうなのだろう、親というものはこういうものだ、と思っていたようで、そのこと自体を悲しんだりはしなかった。
 そのような日々の暮らしであったからだろう、遠足という特別の日とはいえ、ちゃんとしたお米を食べることに悲しみがまとわり付いて来るのであった。
 今になって考えてみれば、それは両親に対するものではなかったように思える。いつも一緒に雑炊の卓袱台(ちゃぶだい)を囲んでいた妹や弟に対してのものではなかったのか。
 私には二人の妹と一人の弟がいる。もうひとり、私が六歳のときに胃潰瘍で死んでしまったすぐ下の弟がいた。どれもみな「痩せこつ」で霜焼けで、いつもピーピー泣いているような者たちであった。親から強制的にその子守をさせられていたから、妹や弟たちに特別に愛着の感情を抱いていたとは思えない。むしろそれらから一時でも逃れて友達と自由に遊びたいと考え、いろいろと工夫していた。
 しかしその時分、そのことを意識しての「切なさ」ではなかったようにも思える。むしろ、子供心にもはっきりと自覚していたのは、懸命に無理をして弁当をつめたであろう母親の「見栄」というものに対してではなかったか。
 
 半世紀あまりを経た今となっても、早春の風に乗ってやってくるヒサカキの花の匂いは、いつまでも「切なさ」を運んで来る。
 そしてふと思う。少子化で一人っ子の多くなった今、弁当を開いて、まず兄弟姉妹のことを思うことはあり得ない。とすれば、今日の弁当は豪華だ、とか手抜きしているなとか、主人が部下に対して抱くような感情を持つのであろうか、などと想像する。

 最近、図鑑を開いてみて驚いた。ヒサカキの花について「異臭がする」とか「悪臭がある」と書いてあるではないか。あれは「悪臭」なのか。鼻を近づけ過ぎるとそうなのかも知れない、とは思う。春の遠足の頃に、どこからともなく風に乗って微かに流れてくるのがいいのかも知れない。
 私にとってそれは、いきなり自分を五十年以上も前に引き戻してしまうタイムスリップ仕掛けのエキスなのである。

姫榊(ひさかき)、目立たない花である(2005/3/19) このような山の林床には必ず生えている

現代の小学生たちの遠足については → こちら「三瀧祭で、八つ鹿踊りなどを見ました」

「さくらの丘のヒナたち」(2006/3/9)は → こちら

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