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『自然観察・鳥類観察人間学』とは?

環境教育や子育ての原点につながるものとして

              少しずつ、解説を進めて行きます。        

記述追加日 2004/9/17 9/20 9/21 9/24 10/2 10/18 10/19 10/26 10/28 10/29 10/31 11/2

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【概略】    ●「自然観察、鳥類観察人間学」の詳しい取りまとめは、公にすべく現在努力中です。

     
◇私たちが、快適な暮らしを追い求めている間に、「地球」が危ないことになっていました。「人間のことばかり考えていて、他の生物を見ていなかったからではないのか」と自然観察会や探鳥会(バードウオッチング)の経験から、考えるようになりました。
     
◇推定1,400万種といわれる生物は、密接な関係(生態系)の中で暮らしています。同じ地球上で生きている野生生物たちの生活を見れば、人間の生活や世界のことが、よく見えることに気付きました。それを「自然観察・鳥類観察人間学」と名付けました。
    
◇野生生物は、さまざまな理由から出会いにくいものですが、鳥類だけは、その気になれば、毎日でも見ることが出来ます。人間の問題を知るために、自然や鳥類の観察をお勧めし、考察してみようというのが「自然観察・鳥類観察人間学」です。
〔〜2004/9/16〕 

【はじめに】 〔2004/9/17記〕

1.生き物の分類

 植物などを除いて、生活に身近な動物を簡単に分類すれば、「野生生物、家畜、ペット、人間(ヒト)」の4種類でいいでしょう。
 家畜とペットは、ヒトの管理下にあるものですから、ヒト社会の都合次第による、いわば自由のまったくない生活を強いられています。野生生物はヒトから距離を置きながら自立した暮らしをしています。ここでは、この野生生物とヒトについて取り上げます。

2.野生生物の暮らしている場所

 小さな昆虫類やバクテリア類は別として、哺乳類は意外とヒトの近くで生活しています。イタチ、タヌキ、アライグマ、ハクビシン、ネズミ、モグラ、コウモリ、キツネ、イノシシ、(地方によってはツキノワグマ)などが、すぐそばで暮らしています。ただ多くのヒトはそれに気付いていません。彼らが用心深く、また夜行性のものが多いため、ヒトの目に付きにくいからです。

3.鳥類は特別です

 その中でも鳥類だけは、ほとんどが「昼行性」です。フクロウ(梟)類やゴイサギ(五位鷺)などのように夜行性のものもいますが、多くは昼間に行動します(ただし多くの小鳥類のように、夜間に渡りをする特性については、また別の機会に詳述します。「鳥目」だから夜は目が見えないという誤解についても別項で述べます)。
 野生生物のうちで、毎日出会えるのが「鳥類」です。その気にさえなれば出会えない日はまずありません。野生生物を観察するには「鳥類」が最適であるゆえんです。

4.鳥類はヒトと同じ「高次消費者」です

 生き物が何を食べて、いわば餌(えさ)として生きているかの関係を図にして表せば、ピラミッドの形をした三角形になります。「生物ピラミッド」と呼ばれるものです。その一番上部に位置するのがヒトや鳥類などです。「生態系における高次消費者」といいます。ヒトと鳥類は地球上で同じような立場で似たような暮らしをしているのです。

5.鳥類の観察から、見えてくるもの

 同じ高次消費者である鳥類を見ることによって、予想もしなかったヒトの暮らしぶりが明らかになります。それは、現代のヒトの生活の、大きくいえば地球上のほとんどの問題解決に直結するものである、といっても言い過ぎではありません。「自然観察・鳥類観察人間学」の重要な部分です。

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【第1章 野生生物とヒトの暮らし】          

ツバメの給餌、電線で ツバメのヒナ、口を開けて 「チョーダイーッ」
「早く、自分で捕れるようになりなさい!」




   (2004/5/23松山市東野)

1.野生生物とヒトは、どこが違うのか

 一言でいえば、「エサ」の取り方です。ツバメの巣を見たことのないヒトは少ないと思います。その子育ての様子は? 巣立つ前までは親のエサに頼りきりのヒナたちです。いったん巣立ってしまえば、数日間は電線などにとまってエサをもらっていますが、それからあと、毎日自分の力だけでエサを獲得しなければなりません。アリやハチの一部を除き、野生生物の全ては、「自分の力だけで」エサを獲得する毎日がつづきます。
 ヒトの場合は? 「裏の畑から野菜をちょっと採って来て・・・」などという場合を除き、食卓に並ぶまでの膨大な経路と、多くの人の手間と知恵、その時間や空間を想像してみてください。このシステムに頼ってヒトは毎日エサにありついています。あまりに当たり前のことですから日頃意識することもありません。そのことが「ひとりでは生きられない」ヒトの本質を忘れ去っている原因です。ヒトはあくまでも
「社会的な生物」です。 〔〜2004/9/17記〕

2.「社会」が成り立つためには?  〔2004/9/20記〜〕

「約束事」が守られることが大前提です。98円のお菓子は98円支払って自分のものとなります。97円だ、と言い張っても通りません。「右」を「左」だと主張して譲らないヒトは、運転免許証は取れないでしょう。もし取ったあとにそう言い出した場合……どうなります? 免許取り消し、さもなくば結果的には「牢屋」(今の刑務所)へ「隔離」するほかありません。ヒトが暮らして行けるのは、「約束事」が守られる、という「約束」があってのことです。物の名称から始まって、数式や伝達手段、規則、契約、条例など、ヒトの社会のあるゆることが「約束事」です。国と国との約束は「条約」です。

3.病気になっても・・・

 野生生物は、病気に罹ってしまえば、まず「死」を意味します。その点、ヒトの社会は、病気の者も弱い者も互いに助け合って生きて行ける仕組みを作りました。「分業化」や「会社組織」などを活用して、さらに効率的に「助け合い(相互扶助)」が可能となりました。

4.野生生物の「約束事」は

 飛んでいるツバメが、「もう、や〜めた」と羽をたたんでしまえば、ストーンと石のごとく地上に落ちるだけです。おそらく命も落とすことでしょう。野生生物たちの「約束事」は、「自然の法則」に従っているだけ、という至極単純なもの、あまねく公平平等です。それに比べヒトの場合はどうでしょう?

5.「約束事」の変容

 様々な事情から、約束事を守りたくても守れないヒトが多くなりました。その上、正直に「約束事」を信じていると、ひどく痛い目に遭うことになりました。「人を信じてはだめですよ、知らない人について行ってはいけません」ー―教育の基本方針のようになってしまいました。言葉という約束事をそのまま信じてはいけないのです。困りましたねぇ・・・。お日様は東から出てくるものと決まっていますが、誰かがしつこく「西からだ!」と言い張っていると、いつの間にか「西から」昇って来るのですから大変です、ヒトの世界は・・・・。   〔〜2004/9/20〕

6.どうして、そんなことに    〔2004/9/21〜〕

「競争」というもののせいでしょう。「競争」が「美談」となってしまったせいではないでしょうか。もともと互いの、より多くのヒトたちの向上のためにあったはずの「競争」が、今では相手を排除するための「競争」です。ヒトはなぜ、そのことに気付かない、また気付いても問題としない生き物になってしまったのでしょうか。おそらく地球上のほかの生き物たちを見なくなったせいではないか、と思われます。野生生物たちの「競争」を観察すること、特に善悪や美醜の価値判断など、その倫理観が形成される幼少期や青少年期にとっては、その心(精神)にとってもっとも大事な「栄養素」と言わなければなりません。

7.「縄張り」に生きる野生生物たち
ミソサザイ囀る ほとんどの鳥は、自分の「縄張り」を持って繁殖活動を行います。そのため繁殖期には領域を宣言するテリトリーソングを歌い続けます。それが囀りです。「自分の家族は、この範囲内で暮らすのだから、ほかの者は侵略しないで」というメッセージです。

その領域は、その個体の家族が
生きて行けるための最小の範囲となっています。

〔鷦鷯(みそさざい)の囀り〕 2月頃になれば、雪のある山中でも囀りを始めます。早口で長大な歌を、オスは一日中続けています。
トレーのビー玉 トレーのビー玉 ある一定の面積(写真ではトレー)に、みな同じ大きさのビー玉だったら、もっともたくさんの数が入れます。どれか一つが「俺はもっと欲しいのだ」と、ゴルフボールの大きさを取ってしまったら、4個のビー玉が弾き出されます。個体数としては3個が生きていけなくなったことを意味します。
この「縄張り」というものには、ある一定の区域内で、みんな最低の要求で生きて行こうという知恵が込められているのです。これを
「単位面積あたり最大個体数を養う機能」といいます。
地球も限られた「トレー」です。誰かが欲張れば、その分誰かが生きて行けなくなります。追い出されたものは、生きて行くための「奪還」を始めるほかありません。

  
32個、ビー玉が入っています 28個と、大きなもの1個です 〔〜2004/9/21〕

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8.ヒトと野生生物と、どちらが暮らしやすいか    〔2004/9/24〜〕

「自然の法則(約束事)」に従ってiいるだけの野生生物、これほど気楽なものはないのではないでしょうか、・・・・などと言えば、何を寝ぼけたことを、と叱られるでしょうか。「野生生物が生きて行くための厳しさ」とは、TVなどからよく流れてくるせりふです。ヒトがそんな一方的な見方で解釈しても、「自然」は絶対にウソをついたり裏切ったりすることはありませんから、その法則のもとで生きている野生生物ほど「安心」していられるものはないはずです。何をもって「厳しい」などと評価しているのでしょうか。自然の中で、自然のままに「当たり前の」生活をしている野生生物たちのどこを見ての「台本」なのでしょう。
 ヒトの場合は? 「自然」のことなどそっちのけで、もっぱらヒトとヒトの関係ばかり。それも随分難しいですね。言葉の行き違いだけならまだしも、最初から「おれ、おれ」などと言って、労せずして(といってもかなりの苦労だとは思いますが)エサを獲得しようとしたり、また、裏切るつもりはなかっても相手に通じず、言葉の行き違いから「殺し合い」(正確には「一方的な殺害」ですが)まで起こったりします。
 金庫とか預金の口座とか、証券、株式、不動産、資産、遺言、公正証書、契約書、申請書、届出書、登記簿、謄本、証明書、免許証、誓約書等々、・・・必ずしも確実ではない「約束事」が、
もう限りなく連続していて、ヒトは気の休まる暇がありません。いやになっちゃいませんか?

9.ならば、野生生物になったらどうでしょう?

 簡単になれるものならそうするヒトは多いのではないでしょうか。わが国だけでも年間34,000人以上のヒトが自ら命を絶っています。大変な数です。このような生物は地球上でヒト1種だけではないでしょうか。野生生物から同情されているような気がしてなりません。。何が狂ってこうなったのですか。ヒトは地球上で一番偉かったのではなかったのでしょうか。まったく生きて行くのが「えらい」生き物となったものです。毎日、えらいことです。    〔〜2004/9/24〕


【第2章 野生に学ぶ】          

1.どうすれば、いいのでしょう?  〔2004/10/2〜〕 

 6.の「どうしてそんなことに」にも書きましたが、地球上のほかの生き物を見なくなった「ヒト」が増えたからではないでしょうか。自分の毎日の「エサ」がどうやって、どこから来て、どんな命の犠牲の上に成り立っているのか、そのような想像など出来ない「脳」に育ってしまった大人が多くなった、それが原因だ、といっても言い過ぎではないようです。それで、「ほかの生き物」も見ましょう、それが解決策の入り口では、と思うのです。ところが・・・

2.「いただきます」などと、なんで言わせるんだ!

 と、おこって来たお母さんがいるそうです。学校給食の時間に先生が生徒たちに言わせたというのです。その子は日頃うちでやっていないことなので、帰宅してからお母さんに報告したのでしょうね。「給食費もちゃんと払っているのに、うちの子に、いただきます、とはなんという教育だ。人の物を貰っているわけじゃないでしょうが」との抗議です。たとえお金を払っていても、それは単なる代価であって、人への感謝も込めなければ、それこそヒトとはいえないような気がするのですが。これが現代の「お母さん」の代表的な姿なのでしょうか。どのような「優秀な大学」を出られたのか追跡調査をしたくなるような話です。またその価値のある命題だと思います。日本の、いや地球の将来がかかっているほどのものです。「ヒトの世界」だけでも、これだけ「断絶」しているのです。

3.「ほかの命をたくさんいただきます」という意味です

「いただきます」には深い意味合いが込められています。どれほど沢山の命が犠牲となってヒトのエサとなっているのか、それを考えればそれこそ「涙なくしては」食べられないほどのものです。どうやってその「エサ」が出来ているのか、教育もしなければ見せることもしない「スマートな生活」があふれているせいです。ビフテキを食べる前に、ぜひとも肉牛が殺されるところを見学すべきです。その前に牧場から始めるのもいいですね。さらに泊まり込みで、赤ちゃん牛が生まれるときの手伝いなどやってはみてはどうでしょう。たった一度だけでもいいのです。お肉を見るたび、思い出せばいいのです。

4.ペットを飼うよりも、兎など飼って、殺してさばいて食べてみてはどうでしょう。

 大の大人がペットを飼わなければならない生活も問題ですが、子供たちには一時期大事な教育の手段ではあるでしょう。ならばいっそのこと、いずれ自分たちの「エサ」となる兎や鶏などがいいと思うのです。他人に殺してもらうのではなく、自分で手を下すのですね。そうしないと一日たりとも生きてはいけない「自分」を知るためにです。いやなことは他人にやってもらってお金さえ払えばいいんでしょう、ではなく、地球上で生きるということはどういうことか、心で「体感」するためにです。

5.町なかでは、とてもとても・・・

 そんなもの飼えません、ということですね。鶏だって、臭いし、鳥インフルエンザのこともあるし、早朝から「コケコッコー」とおらぶ(叫ぶ)し、ご近所迷惑もいいところ、ですね。ならばどうします? いい方法があります。学校で飼えるような立地でしたら学校で。住宅地のなかの学校でそれもダメだったら、学校の予定行事の中に取り入れましょう。「実習」に行くのです。そんなに時間はとらないと思います。これは校長先生次第です。立派な校長先生の誕生が望まれます。そんなトラウマになるようなこと子供にさせるとは何事か、と一斉に「保護者連合」が生まれること間違いありません。その人たちを完全に、と言っても9割方でいいでしょう、説得・納得させられる能力や愛情、知恵が求められます。国公立では、さらに教育委員会とかいろいろ相手が面倒ですよ。小学校五年生くらいからならどうでしょう。私立の学校ではやっているところが少なくありません。その卒業生たちに話だけでも聞いてみることですね。教育を真剣に考えられるのでしたら、お勧めです。

6.ショッキングな事件が起こるたびに・・・

「念仏」が唱えられますー-「命の大切さ、重さを、子供たちに教えることだ、それを学校、家庭、社会で徹底させましょう」。・・・どうやって教えるのですか。観念で説いても子供の心には入らないものです。子供たちの「脳内配線」に「入力」されるのは、全ての感覚「五感」を通じてなのです。TVやコミック、その他あらゆるところで、殺人・傷害・恐喝・詐欺・背任等々、あらゆる「刺激的な(大人にとっては日常的な)」出来事が、自由自在、子供たちの脳内に流れ込んでいる毎日なのです。それらを放置したままで、「口先」のほうが、効き目があるのでしょうか? 「念仏」に心が込められていないような気がするのですけれど・・・
 調査した統計データがないのが残念ですが、子供の頃に生き物を自分の手で殺したことのある者は、大人になって命を危めたり、子供を投げ飛ばしたりはしないと考えられます。抽象的な表現で恐縮ですが、それは命の実体が、その心の中に消化され同化されて一体となっていると思われるからです。
幼少期、青少年期の「自然体験」が重要なのです。命は「自然そのもの」です。〔〜2004/10/2〕

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7.立派な校長先生を、と望んでも無理なような気がしますが・・・ 〔2004/10/18〜〕 

 校長先生には絶大な「権限」がありますが、それでもなお種々の難しい事情があるようです。第1、校長先生も「宮仕えの身」、組織の中の一員であることに変わりありません。自分のユニークな、というよりも道理の通ったと思われる施策を打ち出すには勇気がいります。その2.学校全体の中で行うことですから、職員一同の協力がなければ当然困難です。若い先生方にどう動いてもらうのか、どう理解してもらうのか大変です。最近は、毛虫を見たとき、「キャーッ」と叫んで逃げるのは、生徒ではなく先生だったりするそうです(ある小学校校長の話)。その3.退職して後も、あるいは死亡してからのちもずっと利害に影響する「仕組み」(率直に具体的に言うべきでしょうか。すなわち「叙勲」や「遺族年金」などです)が出来ていますから、「おとなしく」しているのが無難、と判断する人も多いのではないでしょうか。したがって私立の学校などでなければ、分かってはいても、子どもたちに本当に伝えたいことを身を持って取り組むのは、無理・・・・? かなあ。

8.何か、いい方法は?

 一つだけあります。教育は教育機関が専門ですから、学校で行うのがふさわしいことは言うまでもありませんが、この際、それをあきらめて(といっても働きかけることは忘れず)、自分の家で「教育」することです。もっとも手っ取り早いではありませんか。身近な、自分のうちの子供だけは最低守ることが出来ることになります。最近は、この一番いい方法を、さっさと投げ出して、というよりも問題にもしないで、学校任せの家庭が多いのではないでしょうか? 家族全員、みんなみんないつも追っかけられていますからね・・何に? さて、何にでしょう? (これはあとで考えることに)。

9.具体的に、家庭でどうしますか? 〔2004/10/19〜〕 

 専属の「家庭教師」を雇うことです。なんだそんなことか、と言わないでください。この家庭教師は只者じゃないのですよ。第1、絶対に嘘をついたり約束を破ったりは致しません。その2.生徒次第でどんなことでも教えてくれます。その3.絶対、贔屓(ひいき)を致しません。厳しいところもありますが、これ以上優しいものもありません。その4.24時間対応です。一日も休みは取りません。その5.謝礼は、お心まかせ、全く無料でもかまいません、その家庭次第。・・・・こんな優秀な家庭教師、いったいどこにいるのでしょう、斡旋先は?。

10.その「家庭教師」は?

 それは、「自然」という教師です。野外でも家の中でも、地球上のどこにいても、つねに「自然」を意識するだけでいいのです。「自然」の中に身を置いていることを自覚するだけです。それだけで、この教師は全てのことを、あなたの能力に応じて即座に教えてくれます。もちろん生徒は1人で行っても構わないのですが、「先輩」として大人や経験者、指導者などが一緒なら、「教科」の内容が格段に豊富になることでしょう。

11.みんなで自然の中へ。

 校長先生にも頼ることも出来ないし、学校では教室か運動場ばかり、せいぜい「総合的な学習の時間」で社会見学に出かける程度しか期待できない、とすればとにかく家族で、あるいはグループまたは友達と「自然」の中へ出かけることです。それだけで柔らかい「脳内細胞」が、五感を通して入ってくるあらゆるものを、たちまち吸収してくれるでしょう。それは一生涯失われることのない、あなたの「財産」です。

12.そこで出会うあらゆるもの、それが教材です、先生です。

 石ころの道があれば、舗装道路とは違った「信号」を、あなたの足の裏に送り続けて来ます。どう歩かなければならないかを教えてくれているのです。のどが渇きました。それを解決するには、どうしたらいいのか。あなたの脳内の思考回路が試されます。冷蔵庫へ行って何か出してきたり、水道の栓をひねってすませる、というような「硬直した」行動では対応できないですね。例を挙げればキリがないですが、現実にはもっともっと「劇的」でダイナミックなのが「自然」です。たとえ一日だけの学習時間でも、あるいは1時間だけであっても、どれほど多くのことを学ぶことになるでしょうか。実際にその教師についたことのない人には「考えられない、想像もつかないこと」です。そのような人が増えましたね。〔〜2004/10/19〕

13.一つの例示です。 〔2004/10/26〜〕 
真っ赤なガマズミの実 紫色のリンドウの花 これらが、あなたの
「家庭教師」です。
(左)ガマズミの実。
(右)リンドウの花。

いずれも
愛媛県上浮穴郡
久万高原町皿ヶ嶺にて
(2004/10/17撮影)

 自然の中での一例です。ガマズミの実の味、その色、生息環境、生態系の中での位置、リンドウの咲く笹原の道、その光、流れる風、それら全ては五感を通じて体の中に「入力」されます。無意識のうちにですから、おそらくそのときは特別の現象が起こるわけでもなく、変わった反応が生まれることもないでしょう。同行の仲間がいれば、「実がなっているよ」とか「まだ、咲いているね」などと伝える程度のことです。意識されることもなく脳内に「入力」された「情報」は、いつの日かその人の「個性」の基盤になるものと思われます。「脳内神経」言い換えれば「その人の心」に取り入れられた貴重な「財産」とも言えます。野外で、現場で、そのものに出会わなかった場合と比べれば、いっぽうはゼロであるのに、いっぽうは質量ともに計り知れないほどの何かが「その心に」形成されることになります。

14.機会をとらえて、出かけましょう。

 何はともあれ、自然の中へ出かけましょう。数え切れないほどの「家庭教師」が待っています。自然現象の全てが、「生徒」に合わせてでどのような「教科」でも教えてくれます。授業料は無料、そこへたどり着くまでの経費くらいです。家の近くに歩いて出かけるのであれば、それも不要です。家族で、あるいは1人で、また友人・知人たちと出かけましょう。自然のすべて、あるいは野生生物、もっと限定して昆虫とか野鳥、もっとしぼりこんで蝶とか蜻蛉(とんぼ)、雀とか眼白(めじろ)というふうに勉強の対象を選んでからスタートするのも悪くありません。それらはやがて、地球の全てのことにつながって行きます。健康にいい過ごし方をしながら、楽しみながら勉強が出来るというわけです。〔〜2004/10/26〕

15.野生に学べば・・・。  〔2004/10/28〜〕
水浴び場の雀たち 何か相談事でしょうか。
「お前が、先にやってみろ」、なんて言ってる感じですが・・・・、
「俺ひとりで入りたいんじゃ、邪魔するな」、ともとれますし・・・。
「お前だけの風呂場じゃないだろ、みんなに使わせろ」
などと、・・・・勝手な想像でしょうか。

庭に作った野鳥の水浴び場(バード・バス)にて、スズメの相談。
水浴び場の作り方、注意点は → こちら(「シジュウカラの水浴び」最下段)へ。

 野生生物から学ぶこと、学ばなければならないことは無数にあります。ほんの少し、そちらへ視線を向けるだけで、解決への糸口が簡単に見つかる「人間社会の問題」がいかに多いことか、毎日切実に感じることなのですが、それを分かりやすくお話しすることがますます困難な時代になったような気がするのです。その中でも最も緊急の課題と思われるもの一つを、次の章で取り上げてみます。

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【第3章 男女共同参画推進の落とし穴】 

1.目を見張るような記事です。

 愛媛新聞2004年10月28日付「生活」欄に、「私らしく明日へA日本女性会議まつやま分科会から」の報告記事「ジェンダーって何、教育現場の差別を考える」と題して、次のような文面があります。
「つくられた性差のおかしさに気付くこと、それこそがジェンダーフリーへの第一歩」。
運動場に並ぶ時に男子が前だったり、男女でランドセルの色が違うなど、子どもたちの身近なところに差別はある」。
2002年から2年間、丸亀市の男女共同参画モデル校に指定された城南小では、身近な差別を取り上げた授業を積極的に実践。
「男女共同参画を加味した授業を今後も続けたい。すべての小学校がモデル校になれば意識も変わる」。
「ジェンダー教育は小学生からでは遅すぎる」等々の記事は、まさに目を見張るようなものです。

2.男女の色の違いは何のため?

 野生生物は、一般に色彩の違いなどで性別の区別をしています。雌雄同色のものもありますが多くの鳥類その他生き物は色彩や形態、鳴き声、行動などで区別をして暮らしています。特に繁殖期に色彩などを変えるものが少なくありません。そうでなければ生きていけない仕組みとなっています。ランドセルの色で、あるいは衣服の色、持ち物などでヒトの男女の区別を行ってきたのは、生物としての貴重な知恵だと考えます。

3.病院でのこんな経験。

 ある病院の会計のところで、順番を待っていました。私の名前が呼ばれました。男性の声でした。急いでカウンターのところへ行きます。10人ほどの係員が並んでいました。ところが女性ばかりです。一瞬うろたえました。男性がいません。どの人に呼ばれたのでしょう、きょろきょろ、うろうろです。も一度見回しました。やはり女性ばかりです。そのときもう一度呼ばれました。近くでしたのですぐに分かりました。よく見れば確かに男性でした。ただし髪形といい、顔つきといい、女の人のような格好でした。おまけに誰よりも身長が低かったのです。私は一瞬「ヒヤリ」としました。これが緊急のときだったら・・・と思ったのです。一瞬を争うとき、わずかなためらいで私は命を失っているかも知れないのです。男か女か、分からなくなると偉いことが起こるということを「体感」しました。

4.緊急の事態が起こらない国、起こらない生活。

 今の日本は、普通の生活では「緊急事態」などまず起こらない毎日です。地震や台風などの天災がときに局地的に襲ってはきます。男が腕力で立ち向かって家族を守ったり、燃料とする薪や食糧などを背負ったり、重量物を担ぎ上げたりすることは、特殊な職業の人以外は行わないことになりました。女性や子供が逃げ隠れしなければならない戦場でもありません。私たちの子供の頃は進駐軍(第2次大戦終戦直後の日本に駐留していた連合国軍)が来るといって、女は隠れていなければ、とされたものです。

5.おっぱいはなくても、哺乳瓶があれば・・・。

 赤ちゃんを育てるのにも便利になりました。粉ミルク、冷蔵庫、保温ポットなどのなかったころに比べれば、育児も天国と地獄ほどの違いです。おっぱいのない男性でも、哺乳瓶などがあれば子育ては可能です。でも、私がいま赤ちゃんに還るのだったら、ゴツゴツしたひげもじゃらの膝の上で、胸毛になぜられながら哺乳ビンをちゅーちゅーしたくはないですね。そんな育て方をされたら、相当に感覚のいびつな、微妙な感情などを抜きにした、かなり「たくましい」、バランス感覚の崩れた子に、グレてしまうのではないか、いやグレてやるぞ、と言いたくなります。

6.すべては余裕が出来たお蔭でしょう。

 体力や忍耐力、持久力、あるいは慰めや癒しの能力、そんな面倒くさいものは無くても、生きては行けます。なんでも大体手に入ります。ただし「お金」さえあればの話ですが。平和で、安全で(最近は多少安全でなくなりました・・・さらにきな臭いもあり、となってきましたが)、とにかく便利な機械、道具、品物、によって、生活上の余裕ができたのです。あくまでも地球上での限られた地域(またおそらくは、一時期的に)としてではありますが、男はたくましく、女は優しく、なくてもいいのです。

7.自然界、いわば野生生物の世界ではどうでしょう。
(左)抱卵中のオオルリの雌

(右)給餌中の
オオルリの雄


雌雄の色彩差については→こちら「付き合ってくれたルリビタキ」もどうぞ。

 オオルリさんも、男女協力して子育てしていますね。雄のほうは、今ヒナの糞をくわえて遠くへ運び去ろうとしているところです。そのへんに糞があると外敵(カラス、イタチ、ヘビ、肉食性の鳥)などにヒナを見つけられるからです。しかしこの雌雄の色の極端な相違は何故でしょう? 雌は長い間巣の中で卵を温めなければなりません。保護色でなければ大変です。雄は雌と結婚するために派手で目立たなければなりません。木のてっぺんで一日中囀り、「ここは俺の領分だ。養える場所を確保したから、俺と結婚してくれ!」と宣言し続けなければなりません。さらに、この色合いに反応して、雌は体内に繁殖のためのホルモンを分泌させるのです。少しでも沢山の子どもたちを育てようと思えば、「余裕」などと言ってはおれません。全力を尽くすことが、野生生物には求められています。

8.ところで人間さまは、どうなのでしょう?

 男女の色(形態・生態など)の違いはいりませんか? 繁殖用のホルモンなどは、もう要らなくなりましたか? しっかりと考えなければならないのではないでしょうか。えっ 何ですって? 野生動物たち、ケモノなどと人間をいっしょにするな、ですって? 人間と鳥などとは全然違うんだ、ということですか?

9.人間は、いつから地球上の生物であることをやめましたか?

 鳥などの野生生物と人間と、どこが違って、どこが同じなのでしょうか? 答えられますか。まさか、ヒトは生物ではない、とはおっしゃらないでしょうね。それでは話になりません。同じ生物だとすれば、どこが違うのでしょう。このページの上のほう、第1章「野生生物とヒトの暮らし」、1「野生生物とヒトは、どこが違うのか」などへ一度返って思い出してもらわなければなりません。野生生物は自分でエサを獲得して生きる。ヒトは互いに助け合って生きる、という違いだけです。決して生物であることをやめたわけではありません。肉体的・精神的にあらゆる生物をしのぐ優秀な生き物に変質しているものでもありません。

10.便利な道具に目がくらみましたか?

 何でも自由になるような生き方、地球上のほかの生き物のことなど眼中にないままに、ヒト一種だけが我が物顔に地球を「食い物」にしているような暮らしが当たり前となってしまったために、もう少しで「生物」であることを忘れてしまうところまで来ています。詳しく述べる余裕がありませんが、自分でエサを獲得したり、山野で方角を判断したり、遭難しかかったときに危険から身を守ったり、子どもを動物として健全に育てたり、互いに約束を守ったり等々、このような生物としての能力がゼロでも生きて行ける、という現実が当然のこととなりました。その結果、ヒト本来の「生物的能力」や「生物的特長」を無視した教育が平然と行われることになったのだと思われます。

11.男女差がなければ、ホルモンの差もないのですか?

 脳内の神経細胞成長著しい幼児期や青少年期に、生物としての男女差を「感覚的に」摂り入れなかったらどうなるのでしょう。子どもたちは、最も野生生物に近い生き物です。その体内ホルモンは、どうなるのでしょうか。色彩や声音、皮膚感覚や嗅覚、その他これら五感を通して吸収される「理屈」ではない最も重要な「栄養素」を拒絶させ、生体としての発達を故意にゆがめる、これこそ真の「ジェンダー」というものでしょう。地球上の生物は、どれ一つとして絶対に行っていないことを、ただ一種ヒトだけがやっています。

12.子どもたちに毒を飲ませているようなものです。

 幼児や小学生など、未成熟の子どもたちに向かって、社会的な仕組みや、価値判断とか対人関係、特に「社会的性差」などという、大人でさえ的確に捉えにくい高度な命題を突きつけ、強制的に飲み込ませようとするとは、とても常識では考えられないことです。子どもたちの脳内に「毒」を注ぎ込んでいるようなものです。子どもたちにこそ、男女の違い、その仕組み、役割、体力や反応、感情などの違いなどを徹底的に教えなければなりません。まず自分を知ることが「教育の基本」であるはずです。一部の者は、というよりも大多数の大人はそのようなこと分かってはいても、発言しにくい、いわば「ジェンダー」社会となってしまいました。

13.結局、何が間違っているかといえば、至極簡単なことです。  〔2004/10/29〜〕

 一言でいってしまえば、「生物学的性差」と「社会学的な性差」を混同しているだけの話です。むしろその両者についての意識すらないのでしょう。卑近な例をあげれば、男女とも、ジェット旅客機やダンプカーなどが運転できるようになったのも、操作機械の改良によって、男女差のある「腕力」が必要なくなったからです。最近はパワーステアリングの付いていない車も少なくなったでしょうから、腕力の必要だった時代のことなど知っている人もほとんどいなくなりつつあります。生物学的に男女が同じになったのではなく、「社会的に作られた」道具や仕組みによって、同じ「作業」が可能となっているのです。ここから「混同」が起こるのです。物の本質を言わず、あるいは考えず、「やれるから同じなのだ」と今の学校教育では教えています。それら教育の行われている一部の小学校の3年生や4年生などに作らせた「標語」を調べてみてください(松山市男女共同参画推進センターCOMSのロビーには数百の標語が彼ら彼女らの実名入りで展示されています。2004年初頭現在)。恐ろしいようなものが並んでいます。いたいけな子どもたちが可哀想と言うほかありません。

14.なぜ、そのようなことに?

 おそらく、「生物学」などに全然関心のない人たち、またその存在さえ知らない人たちが携わっているのだと考えられます。調査検証したわけではありませんから断言は致しませんが、そうでなければこんな馬鹿げた教育がなされるはずもありません。おそらくは幼少時代に、あるいは学齢期に室内にこもって勉強ばかりに追われ野生生物などとは一度も付き合わなかった方たちなのでしょう。そうしなければ現代の「日本のエリート」にはなれないのですから。さらにそれらの人たちが経営する企業のための、熾烈な競争社会に適合した廉価な労働力の供給源、心理的理論的な基盤の醸成には持って来いの「運動」であり、図らずも都合よく両者が「結合」しているものと思われます。

15.生年や年齢を明かされないのはなぜでしょう?

 それら運動家であっても、女性はほとんどの方が年齢を明らかにされません。その人がいつ生まれたのかは非常に重要な「資質」です。第2次大戦の時に何歳くらいであったのか、高度経済成長期にはどの世代だったのか、9.11同時多発テロのとき何歳だったのか、あらゆる場面でそれらは、お互いの「付き合い」上の重要な「資料」です。「礼儀」と言ってもいいほどのものでしょう。名前を名乗ることとほとんど同じです。それを女性だけが明かさない、この「ジェンダー」の異常さを論じないで放置したまま、どんな「ジェンダー」を取り上げるのでしょう。男性を意識してというよりも、おそらく「同性内での問題」とも思われます。したがって「ジェンダー」という意識がないのかも知れません。この状態は「ジェンダーフリー運動」が軽視される一因でもあると思われます。心の中で多くの人が白い目で見ているようにも思われます。まず自らをただせ、足元を見よ、というところでしょう。この問題が解決して男性と同じ扱いになったとき、ジェンダーフリーが実現しているような気がいたします。一つのバロメーターですね。

16.このような記事があります。

 愛媛新聞2004年10月27日付生活面「発言」欄。『加藤諦三さん 子どもの性 問題深刻 心理的崩壊を救いたい』。
 〔各種の意識調査を見ると、人生で最も大切なものは「お金」とし、「家族といても楽しくない」「親のようになりたくない」という答が多く、家族の崩壊を感じさせる。社会や学校、職場、地域に対する不満も強い。〕
 〔子どもたちは本来、生きがいを求めている。なのに、自分の人生に意味が感じられず、むなしさが募る中で、(性などの)衝動は肥大化している。〕

 この記事に見られる現象は、現在の日本にごく一般的だと思われます。これらも一言で原因を指摘してしまえば、一生懸命働いている大人も、またその収入によって養われている子どもたちも、ただ稼ぎの「お金」だけに目が向いているだけで、
生物が生きるということの根源の姿、いわばエサをどのようにして取らなければならないのか、それはどのような仕組みや現象であるのか、ということを全然見ないところにあるのです。言い換えれば「人間以外の生物の生き方、暮らし方」を見ていないから、ということに尽きます。贅沢のし放題に“復讐”されているのではないでしょうか。

17.さらに危機的な状況が述べられています。

 同じ紙面に以下の記事があります。『自立の大地が揺らぐ 金子由美子 「乱れる食 家族との食事保障を」』。
 〔近郊にはスーパー、家電量販店、コンビニなどの二十四時間営業の大型店が増え続け、深夜や早朝まで、勤めに出ている保護者が増えている。子どもの登校時間に、帰っていない母親や、遠距離通勤のため夜明け前に家を出る父親たち。「うちはみそ汁や漬物は臭いし、つくらない」「ドライヤーしながら食べるから、のみ込めるゼリー食品が便利」「夜も塾でコンビニのテークアウト」〕
 〔現実に人と向き合うと緊張してしまい、給食の時間には会話ができない子、同じ物しか食べない子、さらに、洋式トイレに給食を運び便器のふたをテーブル代わりにして食べる子も出現している〕
 〔栄養を気にするよりも、まずは家族と一緒に食事ができる「環境」を保障してあげたい〕。

18.最も手っ取り早い解決法だと思うものがあります・・・

 上の記事の最後にある「家族と一緒に食事ができる環境」、それを獲得することです。これだけで全ては解決するでしょう。生物全体の生き方の基本に還ることですから、あとに起こる問題は些細なことです。西欧のある国のように、夫も妻も子どもたちも家族全体が夕食は家で摂る、という生活を前提とすることです。ニュージーランドでは、17時を過ぎて即刻帰宅しない夫は、それを理由に離婚されても仕方ない、ということになっているそうです。ニュージーランドの野鳥「キウイ」は、雄が子育てに励みますので(日本でもタマシギなどは雌が派手な色彩、地味な雄が抱卵育児をします)「キウイ・ハズバンド」などと冷やかされています。
 
社会全体を、会社中心から人間中心に変えるだけのことです。それがむずかしい? そうですね、まったく。それで女性が社会に進出して世の中を変えて行こうということなのですが、さて「生物の生き方、子育ての仕方」を見ていない人たちが世の中の要職を占めたなら、どうなるのでしょうね。今の小学校での「ジェンダーフリー教育」を見ていると、身の毛がよだつような気がしないでもありません。

19.日が暮れたら寝ることです。

 と言って、私が実践できていることではありませんが、努力目標ではあります。夜行性の動植物を別とすれば、野生生物は陽が落ちれば眠りにつきます。ヒトも出来るだけ見習うべきでしょう。夜に働かなければならないのは「特殊な」職業です。やたらそのような職業を量産して「地球がおかしくなった、人間がまともに育たない」と言ったって、そりゃ当たり前でしょう。「自然の摂理」に反して我がまま言っちゃいけません。それでまともに行くはずもありません。夜通し放送を続けながら「省エネにつとめましょう」などと繰り返す公共放送、今こそ! というときにわざわざ、必ず割り込んでくるCM。見ているものの「感情」や「情緒」などというものを、全く無視した「礼儀」などというもののカケラもありません。最近の子どもたちに見られる、落ち着かない、集中力がない、などの「情緒不安定」の元凶といえるでしょう。社会的な活動で成り立っている企業のその「倫理観」が、こんなものでいいのでしょうか。これでは子どもたちに礼儀作法を教えようがないではありませんか。お金さえ出せば誰よりも偉いんだ、と教えるのですか。それが正しい生き方なのかも知れませんが、いまや、大人社会の何を見習ったらいいのか、生きがいをどうつかまえたらいいのか、子どもたちに分からないのも当然です。全ては大人の責任です。生物の基本に還ならければどうにもならないところへ来ているのではないでしょうか。  〔〜2004/10/29〕

20.ただ事ではないようです。 〔2004/10/31〜〕

 こんなことを言っている間に、今日10月31日付愛媛新聞生活面に、以下の記事が載りました。(私らしく明日へ 日本女性会議まつやま分科会からD)
『女性学 本音で語る ウーマンリブ 成果守れ』
〔米国で始まったウーマンリブにより生まれた女性学。1960年代から女性の意識改革を目指してきた。現在、こうした動きに待ったをかけ、男らしさや女らしさを推奨し、伝統的な役割を固守するようなバックラッシュ(反動)が起こっている。
「まさに宣戦布告なき戦い。突然なし崩し的に攻められ、繰り返される」。その怖さを指摘する村瀬邦子さん(和光大教授)。「しかし、それは女性運動の確実な勝利に対する反動だ」。
身体的特徴を示す生物学的性差と、社会的につくられた性差であるジェンダー。
「バックラッシュは二つの性差を混同している。身体的特徴はそれぞれの特権であり、認められて当然だ」。矛盾を鋭く突いた。
「意識改革には取り組んだが、システムを変えるため具体的に政策を提言するという面が弱かった。実際の運動に結びつく学問こそ必要だ」と訴えた。〕
 上の報道によれば、生物学的性差と社会学的な性差が「意識されている」ことが明らかです。しかもバックラッシュはその「混同」によるものだとしています。とすれば、その現象がどちらに属しているか、どのように混同しているかの「認識上の争い」となり、これはただ事ではありません。生物学的に見て男とはどんなものか、女とはどういうものなのか、学問的に明確に定義されない限り、互いの見解の相違ということになってしまって、いつまでもこの「戦い」は終わらないことになります。現代の大人がどれだけ「生物学的に学問」するのか、簡単にいえば生物をどれだけ正確に見ることができるのか、それもヒトだけを見ることではなく、地球上の生物を知るということですから大変です。現実には、そのような次元での二つの「性差」の違いについて、小学生たちに教えているものとは思えません。また小学生に理解できるレベルの問題でもありません。大人でも難しいと言ったゆえんです。ヒト以外の生物に目を向けなくなった現代の大人にとって、「生物を知ること」は最も困難なものの一つです。地域によって時代によって、文化によって、すなわち社会的な仕組みによってそれぞれの性差は適応して来たものです。二種類の性差が明確に線引きされて区別されるものでないことは、誰が考えても明らかなことです。「協同」ではなく両性の「戦い」となる可能性を秘めていると言えましょう。
 バックラッシュ(反動)は、はからずもこの両種の「性差」の明確な区別の困難さを示す結果として、必然的に現れてきたものと見るべきでしょう。

21.男と女の違いを教えずに育った子どもたちは・・・。   
フラッグを着けたキアシシギ このキアシシギは、左脚に青色のフラッグ(旗)を着けています。これは鳥の生態や
寿命、渡りの経路などを調査するために、北海道根根室市の風連湖近くで着けられ
たものです。1996年5月22日愛媛県松山市東石井町の小野川で撮影しました。
キアシシギは、シベリア北東部で繁殖し、冬はオーストラリア沿岸へ渡ります。
このキアシシギは春の北帰行の途中、栄養補給の採餌をしているところと思われます。

 多くの渡り鳥は、その体内に生まれるホルモンによって、渡るべき時期を知ることが分かっています。地球を半周するような長大で危険な旅を毎年行うのも、体内に生まれるホルモンの働きによって、止むに止まれぬ生物としての自然な行動の一つとして旅立って行くのです。ヒトの場合も、体内の性ホルモンによって成長して行きます。小学生たちも当然、思春期を通って大人となり、恋愛し、結婚し、子孫を残して行く「生物」です。男であること、女であることを極力意識させないで育てられた小学生たちが思春期を迎えたらどうなるでしょうか。内なる性ホルモンの活発化で、いやでも男であり女であることを意識せざるを得ません。「与えられた教育」と「自己の内なる自然」との狭間で苦悶することは火を見るよりも明らかです。「17歳の犯罪(最近はさらに低年齢化しています)」などと言われるものも、これらの矛盾に起因することはよく指摘されるところです。小さいときから、生物であるオスとして、メスとしてしっかり自覚させる教育を行うべきでしょう。子どもたちが大きな「落とし穴」に落ちかけていると思います。巣の中のヒナに、利害関係もぶれの大人の手垢の付いたエサを与えてはいけません。〔〜2004/10/31〕 

22.子どもたちは、男らしく、女らしく・・・・   〔2004/11/2〜〕 
二人三脚の男女 大人たちの「混乱」をよそに、子どもたちは、ごく自然に男は男らしく、女は女らしく行動しています。
彼ら彼女らは、もともと「自然児」なのですから、そのままで健全です。
大人社会に組み込まれたとたん、生来の「生き物としての感覚や能力」を、それこそ「社会的に」
もぎ取られて行くことになるようです。
野生生物と同じように、のびのびと過ごさせたいものです。

互いに助け合い協力し合っている男女は、見ていても本当に気持ちのいいものです。
子どもたちは、もっとも野生生物に近い生き物なのですから、それは当然です。
このままスポイルされないことを、祈るばかりです。

23.のんきなオス、しぶといメス。
給餌中のホオジロ雌 巣のヒナにエサを運んできて、考え込んでいるホオジロの雌。
撮影中、出るに出られず辛抱、謝るわけにも行かず困ったものでした。

 20年ほど前に、ホオジロの繁殖行動を撮影していたときのことです。10メートルほど離れたところにブラインドを張って、レンズの大きさの穴が見えるだけの状態にしていたのですが、雄がエサをくわえて来るとさっさと給餌して飛び去るのに比べ、雌は考え込むようにエサをくわえたまま20分以上もじっとしているのです。こちらは見つかっているはずもないと思うのですが、直径10センチほどのレンズの暗い輝きが普段とはどこか違うと思うのでしょうか。のんきな雄に比べ、雌のなんとしぶとく用心深いこと、生物界の雌雄差をつぶさに見る思いがしたものです。ヒトだって男は「のんき者」でしょう。女がしぶとく用心深いのも、子どもを生み育てるのですから当然の能力です。お互いの特徴を生かしながら互いに補い合い助け合ってこそ、その種族は繁栄するのだと思われます。特に「生息環境」が厳しくなればなるほどそれが求められる度合いは強くなります。  〔〜2004/11/2〕                         〈つづく〉ただいま工事中

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